友が遺してくれたもの
生き抜いて生き抜いた友の
四十九日の法要が終わり、初夏が来た。
私は参列できなかったが、
紫陽花の季節には、再び彼女に会いに行くつもりだ。
それまでにはもっと心の整理をしようと思う。
彼女のパートナーさんからの長い長いメールを読む度に、
情けないことに、私はまだひどく涙が出るのだ。
彼女が住んでいた街は、遠く離れた東のほうで、
冬場はとても強い風が吹く。
その緯度のわりには春の訪れも遅く、
私が住むエリアの温かさを分けてあげたいと思ったほど。
そんな遠方に住む私たちは磁石が引き合うように出会って、
その付き合いは3年に満たなかったが、
私にとって彼女は本当に大きな存在だった。
出会ったときにすでに余命宣告を受けていた友との時間は、
生きること、死に際、散り際というものを、否が応でも考えさせられた。
その中で、多くを気付かされ、
私には怖いものが増え、怖くないものも増えた。
自分に正直に、本気で生きることも、
彼女の末期が教えてくれた。
彼女の人生のほんの少ししか垣間見ていないけど、
その歩みから、
本気で生きなあかんよ?という声がこだまするようだ。
自分という存在というか、生き方を自ずと見直すことになり、
私が私に吐いていた嘘をあぶり出されたような気がする。
絶望を生命力に変えて生きた彼女に恥じることのないように、
「生きる」をやろうと深く思う春の終わり。
四十九日の振り返り。夜半の思慮。
私にとっても、これでひと区切り。
0コメント