自己表現のための、他者容認の大切さ。

ピークは過ぎたにしても、

ブログやSNSは自己表現ツールとして賑わっている。

昔に比べて、文章を書く人は俄然増えたと言っても過言ではない。


そんな時代であるけれど、

「書けない」「文章が苦手」

そう仰る方が後を絶たない。



文章化だけでなくて、

自己表現において、自己肯定と同じくらい、

時にはそれよりも他者容認が大切である

……というのはご存知でしょうか?


自己を表すのに、他人のこと? と思われるかな(^_^)


文章指南をする人たちが、他者容認が大事ですよ、と言うのは

実は意外と、よく目に耳にすることなのです。


ということで、今回は、

批判、否定、拒否、承認欲求、自己肯定感、他者容認、

これらはどれも密接に関係しているというお話。


わかりやすくするために、文章化に特化して書きます。

でも、あくまでそれは、例え、ですからね。



自分のこと(自分が書いたこと)を否定される、拒否される、認めてもらえない。

それはある意味、恐怖なのかもしれない。


だから、文字にしない、アウトプットしないという人が案外多い。

(このことは、以前も記事にした気がします)


裏を返せば、肯定されたい、容認してほしい、認められたい、ということで、

さらにその心理の裏の裏を返せば、

実は、他者を肯定していない、容認していない、認めていない、

という可能性がその人の中にある。


全部が全部というわけではないが、

そういう要素が自分の中にあるがゆえの反応であることが多い。

しかも、厄介なことに、無意識に、である。

もちろん意識的な場合もあるけれど。(ΦωΦ)フフフ…


文章化という、オーソドックスなアウトプットが苦手な人は、

面白いことに、必ずしも口下手というわけではない。

むしろ雄弁な人も多い。

時には、人を言い負かせるくらいだったり、

その魅力的なおしゃべりで人を取り込むのがうまかったり。


でも、そんな方々が文字にするのを億劫がったり嫌がったりするのは、

それらがそこに、文字という記録として残るからだと分析する方も多い。

なるほどと思う。

無意識レベルかもしれないが、それらは、

自分が否定されたり拒否されるかもしれない危うい要素なので、

とにかく残したくないという気持ちが働く、というワケ。


本当は耳から入るものも記憶という形で残るのだが、

そこはそれ、目にすることができるものの威力は

誤魔化しが利かない怖いものなのだろう。


詩の世界や小説はまた別のエリアなので、

横において話をすすめるが、

その恐怖の根底には、その実、他者容認の弱さがリンクしている。


簡単にいえば、他者を認めない傾向があるから、

自分も認めてもらえないかもという恐怖を抱えているということ。

鏡がここにある。


とても観念的な形容だが、「良い文章」「心打つ文章」

そんなものを書ける人は、実は、他者への容認力が高い。

そして、その他者容認力ゆえか、

意志の強さは有していても、攻撃的な文調をしていない。

品があるという場合も多いかな、と。


気に入らない他人の書いたものをわざわざ引用したり、

昨今であればリブログしたり、SNSでシェアやコメントしたりなどを時々目にするが、

そういうのを見ると、それは文章「表現」というよりも批評・批判に近いと感じる。

(言い換えれば、批評や批判を、表現だと勘違いしているということ)


確かにこれはやられたくないと思う。

で、そんな槍玉に上がる可能性があるなら書きたくない、という

そんな心の動きがあっても当然かもしれない。

要は前述の

「自分のことを否定される、拒否される、認めてもらえない」の最たるものだから。


ましてや、リブログやシェアは、された側もすぐにわかるわけだから、

間接的な批判というより、暗に攻撃をかけられたようなもの。

そこまでピンポイントに意見するなら、

直接、メッセージを送ったら良かろうに、と思わないでもない。

相手も公人ではなく私人であることが多いのだから。


もっと言えば、(というか、ここがむしろ大事)

他者の考えは他者の考えなのだから、

そこはその人の領域として容認する気持ちを持っても良いと思う。

大元の文章を書いた人には、そう書いた理由は、それなりにあるわけだから。

(もちろん、自分のことを名指しで書いているなどは、話は別だ)


ん? 待てよ? 無断の引用や、リブログも、一種の表現か。

それほどに、「物申したい」という思いへの。


意見したいというのは、表現とは微妙に違う。

どこまでが表現の域なのか。

それも基準は人それぞれですね。ああ、ややこしや。


反対意見は、愉快ではないけど、視野を広げる一端を担ってくれる。

だから、相互でそれをやるのは、フェアなディスカッションが理想的だ。

不意打ちのような方法でないほうが好ましい。

……というのは、私の見方だし、そう受け止めることができるようになったのは、

自己の確立のためにも他者容認が大切だと身をもって知ったからだ。


私もまだまだだと思うが、

他者容認がしっかりとできる人は、自己の世界も大切にする。

攻撃的にならなくても、他者を否定的に取り上げなくても、

その人自身の意見をしっかりと書くことができるのだ。


自分の意見を書くのに、何かを引き合いに出す必要はない。

比較するというのは、ある面、わかりやすくもなるが、

必要な要素だとは言い難い。


それよりも、自分の言葉で、素直に自分の世界を書けばいい。

それが、表現とは、その人の世界の表れだ。他者の目は関係ない。

だけど、他人を認めなければ、自分の本当のことは書けない。

そこには他者への信頼が、安らかに横たわっている。

(重ねて言うが、詩の世界や小説は少し違うこともある)


だから、批評や非難、否定の体でかかってくるものには、

そーゆー見方なんですね、とテキトーに対応すればいい。


事実を見逃さないことだ。


好き嫌いは好みであって、あなたへの批判ではない。

批判や批評は対象物に焦点を当てた目線であって、

その人を表現しているものではない。

ゆえに、勝手な言い草であることもとても多い。


言ってることはどうかと思うが、

その人自体は好きだな、なんてこともあるだろう。

その人の表現に惹かれると、そういうこともしばしば起こる。

(逆もありますね。言ってることは正しいと思うけど、その人は嫌いだ、とかw)


先にも書いたが、文章指南をする人たちが他者容認が大事だと言うのは、

そういう表現の本質を踏まえているからだ。


否定されたくなかったら、まずは他者を否定しないこと。

他者の感情に乗せられることなく、「自分」を書くこと。

それができたら、おそらく、

他者が領域侵犯をして否定しにやってくることはない。


もしも、やって来たとしても

「ああ、この人はこういう感覚、考えの持ち主なのだ」と容認できる。

それができるようになったあなたは、ひとつ桁があがったところにきっといる。


中途半端な自己肯定感の迷いや、他者批判の目に気づこう。

他人の何が気に入らないのか、癪に障るのか。

それは羨望ではないか、嫉妬ではないか。

(そして、それらは抱いてはいけないものではない、

 ということにおいて、ぜひ、自分にやさしくあろう)


と、同時に、本当のあなたの魅力を認めよう。

短所だと思っていることが長所であることも多い。

他者に比べて、あなたは劣っているのか。それは本当なのか?


その比較の目こそが、自己表現において無用の長物ではないのか。


どんな自分でもどんな他人でも、尊く平等に存在することを思い出そう。

否定、非難、拒否する側の闇は、

あなたの光で中和することができるということとともに。