恥と外聞

私がガラスの世界を学び始めて、

この夏で、そろそろ丸7年が過ぎようとしている。


けれど、今になっても、

師匠が知ったらぶっ飛ぶだろうなぁというほどの

無知や未熟を抱えている。


堂々と言うのもいかがなものかとも思うけど、

私のダメダメっぷりは紛れもない事実だ。


実はそのことで、今日、とても生真面目な知人にガッツリ怒られた。


わかっている、覚えているが良いことで、

わからない、覚えないことが悪いことだという観念を、

気持ちがいいくらいにぶつけられた。(;゚∀゚)アチャー


その人はいい人なんですよ? 個人的にはとても好き。

怒りになった思考も手に取るようにわかる。


何故わかっていないのか。

何故覚えられないのか。

今更、よくもそんなことが聞けるものだ!!!

わからないってことが、わからない!


そんな露骨な怒りだった。

私とは立場も違ったので、その態度もどうかと思ったが、

怒りは怒りとして伺っていた。

確かにね、わかりたいし、覚えたいですよ?(^_^;)

でも、わからないことってある。

自分の中で繋がらない、覚えられないことってある。

きっとその人にもあるだろう。

でも、その反論は飲み込んだ。


わかっていない私よりも、

キレ気味のそのお相手、その人自身のほうが、

無知や未熟や、ガイドラインから外れることを

すごく恐れているように見えたから。


私自身は、

わかるが良くて、わからないが悪いとは思ってはいない。

それで迷惑をかけているという態度をとられたとしても、

それは本当に迷惑をかけているのかなーという疑問も持っている。


不勉強だ、真剣味が足りない、

そう思われても、それはその人のものさしであって、

私は私なりの勉強もしているし、かなり真剣にやっている。(私の視点では)


だから、これからも知りたいことは訊くだろうし、

自分なりの努力をするまでだ。

私なりの努力……きっとピントがずれているんだろうなぁ(^_^;)

もしくは才能が壊滅的に無いのか。

だったら、やめろって話なのかしら???


でも、私はやりたいんだよね。(^_^;)


となれば、ピントを合わせなおしていくまでのこと。

続けていくまでのこと。

周りが、その人が、なんと思おうとも。


(私のガラスの師匠はそんな怒りをぶつける人ではありません、念のため。

 こんな不肖の生徒に、根気強く教えてくださっています☺)


トライ アンド エラーをトライ アンド ゲットに変えるまでは、

恥をかくことも辞さないし、外聞も憚らない。

時には怒りを買いながらでも、訊ねたり試したり失敗したりするしかない。

カッコつけている場合ではないのだ。

一応、セミプロくらいまではこの道を極めようと思っているので、ね。

畏れ多いかしらん。Σ(´∀`;)


確かにかっこ悪いかもね。

非常識だと思われることもあるかもしれない。

でも、目先のカッコつけや、恥や外聞という恐れに躍らされれば、

私の願いは叶わないかもしれない。

そのほうが、余程、私は私をかっこ悪いと思う。


立場は変われど、私の仕事においても同じだなぁと思う。

教える立場にいると、「わからない」というフレーズにはたくさん出会うし、

何度も同じことは尋ねられるし、過去には癇癪を起こされたこともあった。

これまで何度も繰り返しお伝えしていることについて、

「それはどの講座までやれば学べるのですか?」と、

初耳です(•ө•)♡みたいなキラキラの瞳で尋ねられることもある。


時には、ショッキングでクラクラっとすることもあるけど(笑)、

それでも、何も尋ねられないより、何倍も良いと思っている。


なぜなら、その質問や態度は、知りたい、得たいという証だからだ。

いつになっても質問がないってのが、1番のクセモノだ。


伝えていても、真の理解としてキャッチされていない原因は2つ。

ひとつは私の力不足。

もうひとつは、その方の知識が、心と体に繋がっていないから。

この後者にしても、私の力量が試される部分も大きい。


でも、やはり、それらを解消するためにも、

恥も外聞も度外視して、「?」を言葉にするのは大切なことだ。


これができるかできないか、は、

その後のアウトプットの量に関わってくる。

そして、アウトプットは、

その後のその人の、魅力と気づきの質と量にリンクする。


ガラス工芸の知識も、他のことも同じだ。

机上の知識は、

それを幾許かでも生かした作品が上手く制作できたときに、

ようやく喜びという感情とともに腑に落ちる。

もしくは、失敗という結果とともに、

落胆や悲しみ、自分への怒りとともに腑に落ちる。

作品という自意識の塊が、分解されて、経験になり、

己の創造力と結びつく瞬間だ。

ま、これも私の場合なんだけど。

(きっと、もっとスマートにスムーズに習得する人もいるw)


でも、誰にでも言えることは、

作って、作って、作っていくしかない。

わからないことは尋ねて、見よう見まねを実践していくだけだ。

やってみないとわからないことだらけなんだから。


そして、時々、無知が後押しした無茶が、

意外な傑作を創り出すこともある。

偶然という女神と結託した結果だ。

そう思うと、知識はもちろん大事だけど、自由を奪うのは本末転倒だ。


あ、話が反れた。(*ノω・*)テヘ


各種のプロセスにおいて、

怒られることも、呆れられることも、恥も外聞も、

試されてるなぁと思う。

本当はそんなもの無いんだという境地にもいるけど、

小さな私は自分を奮起させたいから、

こんなことを自分で現実化させているのかも、などと

思考の遊びを今日もするのである。

この世には本当に、

そこら中にメッセージが溢れているよねーっと思いながら。


怒られて、暗記しなきゃ、覚えなきゃ、間違わないようにしなきゃ、

瞬時、そう思った自分もいた。

もう7年も経つのにわからないことのある自分を、

恥じ入りそうになったからだ。

でも、違和感。


もちろん、そのために気をつけられることはしていこう。

でも、学びの場で、恥や外聞に囚われていたら、学べない。

知識の枠を固めることに囚われていたら、

表現の枠が小さな自分になる。


わからないことを恐れる自分にはなりたくない。


「わからない」

そう言ってくれる人たちの目線がわからない人間にも、なりたくはない。