あなたという花

カードワークを学んでいる仲間とのやり取りの中で、

花を買うという話になった。

示し合わせたわけではないのだが、

春の香りを思い浮かべて

私もその日、出先で花を買おうと思い立った。


話の流れからフリージアをという気持ちは固まっていて、

花屋を見かけては、私はそれだけを探していた。


きれいなフリージアがたくさんあったのに食指は動かず、

とある花屋で、蕾だけのフリージアを見つけたとき、

ああ、これだと思った。

「蕾だけなんですけどね、今朝、入荷したんです」

エプロン姿がかわいいお店の女性はそう言った。


硬くぎゅっと身を縮こまらせたような姿に惹かれた。

開きたいけど、まだなの。

まるで、辛抱強く、そう囁いているかのような。


開いてから終わるまでを観たい。

3本、そっと持ち帰った。


翌朝、室内には芳しいものが漂っていた。

見る前に、鼻先をくすぐるそれから開花を知った。


甘さよりも品が先に来る香り。

凛とした、細い花首によく似合う。


ほころびかけた花は、なんと美しい佇まいなのだろう。

蕾の先の染まり具合に、

濃い赤紫のような花色を想像していたのだが、

そこには淡いピンクから黄色へのグラデーションの

なんとも可憐な花弁が遠慮がちに立ち上がっていた。


小股の切れ上がった粋なお姉さんかと思いきや、

初々しい少女の面影を不意に見せられたような

嬉しい戸惑いに出遭ったのである。


その日は目に留まるたびに、その香りを吸い込んだ。


時間の経過とともに花の広がりはますます大らかに姿を変え、

追って開こうかという順番の蕾は次々にはちきれんばかりになった。



花には、その花なりの姿と香りがあり、

桜は桜、薔薇は薔薇なのだ。

ましてや他の色をうらやむことも、疑うこともなく

己の色と形の一生を全うする。


それを潔く引き受けないのは人間くらいのもので、

私たちの切ない愚かさがそこにある。

たましいの遺伝子を無視して違うものになろうとして、

本当の自分を捨てる努力をしていることに気づかないこともある。


そして花は、その開花の力も、放たれる香りも、

何かに遠慮したり目立たないようにしたりなど

抑えることもしない。

なぜならそれが、すべての素である自然だからだ。


こみ上げてくるものや心から欲することを抑えるのが

美徳や賢い方法だとするようになった人間の在り方は、

おそらく、植物に比べたら、不自然極まりないのかもしれない。

発露は発露であって、そこに良いも悪いもないのだ。



数日の間、私のフリージアは、次々に花房を重たくしては、

惜しげもなく花弁の重なりを解き続け、

香りを歓喜の吐息のように漏らし

妙齢への成熟さながらに少しずつ花色を濃くしていった。


ひらく。かおる。

それが花の本懐なのだ。

命続く限り、植物はそれを明らかにしていく。


人も「本当の私」を表しながら生きていくことを

本能的に求めている。

ただ、その「本当の私」の色がどんな色なのかは、

実は顕在意識の自分ではわからない。


それが現れるには、そこに向けて積み重ねた何某かと

「時」がものをいう。

そう思うと、生きた結果、人生の答、は

死の間際までわからないのかもしれないと思う。


驚くような想定外の色の自分に出会い、

ああ、これがわたし、そう思えたとき、

人は刹那の幸せに浸るのかもしれない。

それが最高潮だと思えたら、どんなに嬉しいことだろう。


そこへ辿りつくためのナビゲーションシステムは

ハートからの声だ。


だからこそ、それを抑えたりごまかしたりするのは、

私が私に抗っていることと同義だと思う。


あなたはという花は、何色に咲くだろう。

いつ、どこで、咲くだろう。

幾度、咲くのだろう。