燃えて生きるのか、くすぶらせていくのか。


先週末、自宅からなら往復6時間超え、
滞在時間は3時間半という弾丸移動を久々にした。
行き先は大分県臼杵市。
うすき竹宵という城下町のお祭りが真っ最中で、
厳密に言えば、その中の催しのひとつ、
KAGUYA舞の舞台を観に。

その舞台の趣旨とか成り立ちとか、
その実態について私は詳しくないのだが、
その出演者たちの多くが
見知った人たちであるため、
以前よりその存在は知っていた。

中でも主宰であり
別格の舞手でもある橋本和泉さんは、
私の心理や意識の世界を深めてくれた女性で、
年下でありながらも、現在の私の
ハイパーなメンターとして重んじている方でもある。

そんな存在である和泉さんの別の顔のひとつが、
那須シズノ Japan 九州支部を司っているというもので
比較的身近で様々にその活動を伺い知ってもいた。

和泉さんの舞の師匠である那須シズノさんのことも
私はほとんど知らないに等しく、
けれど、和泉さんや
その他の知人たちから漏れ聞くそれは一様に、
とにかく気迫を感じずにはいられない
「凄み」という核を持っていた。

その方のもとに集結し学ぶ皆さんが、
なんだかあまりに真剣で、
最初は「え? どうしたどうした?」と
ただ不思議に思っていた。
だが、色々な形で回を重ねるたびに
皆さんの集中と研鑽の様子は色濃くなっていき、
そこに打ち込む姿は
パフォーマンスを超えたものに見え始めてきた。

言い換えれば、
参加する舞姫たちは、
生きることと舞うことの繋がりや重なりに
何かを見出している様相を
ますます表すようになっていったのだ。
あくまで私の主観なのかもしれないが。

過去のパフォーマンスのどの動画からも
そこに感じたものは、
明らかにタロットでいうところのWands、
人の内に燃える焔(ほむら)、
霊魂(たましい)そのもので……。
研ぎ澄まされた何かがあった。

舞手の面々は毎度、微妙に入れ替わり、
普段は別の仕事をしている人たちや
初心者もいるというのに、だ。

私の興味が深まっていく。
これはとにかくナマで見なくちゃ、と。

けれど、タイミングが合わず、
私はそれを直に見ることができないまま
3年近くを過ごしていたのだ。

いつ、私は触れるのだろう。
そして、何を感じるのだろう。

私の中の情動と
私を囲むものの機が熟すその時を、
私はいつしか
静かにフローな心持ちで待っていたように思う。

そして、その時が、この秋、やってきた。

舞台の日程の大まかを知った時点で迷いなく、
「観に行く」という一点
私の真ん中の部分はすっくと立っていた。
向かう当日の朝、私は何者を生きるのか、と引いた1枚は「Seer 見通す賢者」

ああ、気炎が力強く上がる。
胃の腑のあたりに熱く感じた。

まさにWandsというグループからの
それも道を極めた存在のその1枚に、
私は私で模索していた道への思いが重なった。

そして、今日は同じように
魂の焔を燃やしている人たちに会いに行き、
私が感応するであろう何かが
とても楽しみで
心が久々に震えたのだ。

夕刻に到着して、時間まで、
知り合いたちとの再会や
少しずつ暮れてゆく城下町の町並みや、
祭りのシンボル的なモチーフである
竹筒の灯りの素朴な美しさを楽しんだ。

そして、少し早めに舞台がある多福寺へと。
本堂をそのままに生かした、
野趣を感じる設えの中にも
幽玄を感じずにはいられないその舞台は、
テーマとなる竹取物語にぴったりだった。

落ちてくる宵闇、虫の声、揺れる灯り、
少し湿度を含みながらもひんやりと
場の清らかさを伝えてくる空気……
それだけでこみ上げてくるものがあった。
最近、涙腺がゆるくてゆるくて……。

始まりの挨拶は、和泉さんを公私ともに
多方面に支え分かち合う相方さんである、
大麻職人の秋田真介が述べられた。
その後、舞手たちの頭を飾る
真介さんが結んだ大麻飾りの美しさにも、
私はいたく感動することになる。
慎ましく、けれどしなやかな張りを保ちつつ、
依り代の振動を持っていたそれは、
舞手たちとともに毅然と踊っていた……。

********

本編は夢のように終わった。
時間は絹糸の滑りのようにするすると流れ、
心地よく茫然としたままに。

個々の舞と、全体の動きと、
静と動と
静寂と深い響きの音霊と。
私は祈りのような安心感に抱かれ、
時には連れ去られ、
その舞台とともに在ることに自分を委ねられていた。

これまでも数多くの、各種の舞台や
パフォーマンスを好きで見てきたと思う。
そして、好きだからこそ、
純粋に楽しめないこともあった。
要は、切ないことに
シビアになってしまうこともあるということ。

この舞台も、全員がプロフェッショナルではない。
だけど、そんなことは問題ではなかった。

舞いながら、今ここに生きている彼女たちを
感じられたことで十分だった。
いつもの見知った顔、
見慣れている立ち居振る舞い。
それらが完全に鳴りを潜め、
誰もが同じく尊い存在として感じられた。
名前や普段の生業など
そこには微塵も感じられないかのように。

大和の神々しい所作を感じる脚の運び。
こんなにも美しい平面だったかと息を飲む背中。
伸ばす腕の、しなやかに描いたライン。

つむじから足の爪先まで、
響き合うように敏くあり……
小柄な人も、長身、大柄な人も、
瀟洒な佇まいもおおらかで豊かな姿も、
その身体と影までもが、
それぞれの個体に最高の表れをまとっていた。

かと言って、個性が消えることもなく。

毅然としている人。
いつもにもまして凛としている人。
艶めかしい人。
丸い心のまま魅せる人。
ただただ輝かしい人。
雄々しい人。
初々しい人。

様々な存在の美があった。

そして、皆、その人の内なる焔を全開に
燃え盛っていたように思う。
ここに至るまでの緊張や勇気や、
挑むように没入してきたであろう集中稽古の
厳しさと真剣味。
それらを思ったら目頭が熱くなった。

「どうしたどうした? 何が起こっている?」
と、私が不思議さに惹かれた
彼女たちの変化の正体をそこに見た気がした。

理屈ではなく、
燃えるように生きる瞬間を知った者。
それがこんなにも美しいとは。

たぶん、価値観はそれぞれで
捉える人によったら、なんのためにやるの?
楽しいかもしれないけどこれは余暇で無駄では?
そんなふうに思うこともあるかもしれない。

アタマというのは厄介で
意味や効率や、なんのため?を大事にする
そんな側面を持つから。
もちろん、それが必要なこともあるが。

何故やるのか、と、
なんのためにそれをするのか、
この2つの微妙なニュアンスの違いを、
これを読んでくださっている方には
ちょっとでいいから考えてみてほしい。

彼女たちは、
スタッフを含め、 ここに関わった方たちは、
ただ、魂のままに生きているだけなのだ。

己の内なる火を燃やすこと。
生み出していく。
人生を創造していく。

そこに損得や計算からの取捨選択は存在し得ない。
この神事を言語化するにあたり、
私もとても時間を要した。
実は今も十分ではないけれど
消えていくものもありそうで、
拙い、足りない、今現在のボキャブラリーで
とつとつと綴っている。
歯切れの悪さを感じられていたら、
冷めやらぬ興奮ゆえだと
どうか見て見ぬふりをしてください(^^)
この集まりの要となり演出をされた、
舞踏家 那須シズノさん。

この方に関しては、
私が多くを語る必要はないように思う。
誤解を恐れずに書くならば、
私には、シズノさんが美しい般若に見えた。

般若は鬼女として扱われることが多いが、
本当の仏法の世界では、
人が生きることの真髄を知ったときに出現する
根源的で究極的な智慧の意味だ。
それを知っていると
あの恐ろしげな面にすら美を感じる。

そんな世界を身体に宿して顕現し、
舞手たちを導いた……類まれなる存在感。
その舞も、当たり前のことだが、
群を抜いて美しく鬼気迫るものだった……

そしてもちろんこの方も、
燃えて生きておられるのだと
容易に想像してしまう。

この舞台を成功させるにあたり、
経験のない初心の舞手にも
その人の大いなる可能性を信じ、
それゆえの厳しさを用いて接し、
そして誰よりも
誰にも
真の意味でやさしかったのはこの方なのだろうな……
ラストの、シズノさんの姿が見えなくなるときに
ふとそう思った。


そして最後に特記したいのが、
音楽を担当した方、茶喜利さん。
この方無しでもこの舞台は成り立たなかっただろう。

数々の楽器、音源に、心に染み入るようなお声。
その旋律もさることながら、
この時間空間に音を発し、自在に紡ぎ、
場をより深く大きなものへといざなった調べ。
それを聴かせていただいたことに深謝です。


KAGUYA舞は、これからも進化を遂げ、
常に今に根ざして舞い、
生きていくことを魅せていくのだろう。

あなたは内なる焔を燃やして生きていますか?
そうしなければならないとは言わないけれど、
1度限りの人生なら
頭の中でこねくり回さず、
ハートを開き、魂の呼び声のままに。
そんな思いを抱いてみてもいいのではないかと思う。

燃えて生きても人生。
くすぶっていても人生。

office morpho

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